私がVHSリリースしたアカデミー賞作品
『ハーツ・アンド・マインズ』、まさかの劇場公開!
当「寝言」のページの熱心な読者の方なら覚えていらっしゃるだろうが(そんな人はいないか?)、2006年2月17日『実はサラリーマンでした』の項に、私がHRSフナイというビデオソフト会社に勤めて洋画の国内向けビデオ発売業務をしていた事を記した。そして、1974年度の米国アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞した『ハーツ・アンド・マインズ/真実のプラトーン』というベトナム戦争の記録映画を会社を強引に説き伏せてリリースさせたのは当時の自慢だったとも記した。
なんと、この作品が今月から日本初劇場公開される。タイトルは少し変わって『ハーツ・アンド・マインズ/ベトナム戦争の真実』。私がHRSフナイ時代にリリースした時はまだオリバー・ストーン監督『プラトーン』の米国アカデミー賞作品賞受賞の熱が冷めていない頃だったので、あのような副題になったのだが『ベトナム戦争の真実』の方が本作を的確に表している。これを観るとアメリカがいかに馬鹿げたことをやっていたかがよく分かる。当時のソビエトもそうだろうが、大国の思惑や一方的政策で関係のない国の庶民が残虐に殺されてしまう人間社会というのはなんなのかと暗澹たる気分になる。そして、戦争は生き残った人間をも破壊し、それを仕掛けた大国にも深い傷を残す狂気でしかない事も思い知らされる。
今回は私が22年前にVHSでリリースしたプリントとは異なりデジタル修復されたプリントでの上映になる。正直、これだけ綺麗だと36年の時間など飛び越えて生々しくメッセージが伝わってくる。あくまでも私見だが、米国を正当化した前提で作られてアカデミー賞を受賞した『ハート・ロッカー』を観た後に本作を観ると、結局、米国は何も反省していない気がする。古い作品ではあるがここに焼き付けられているものは、これからも永遠に事ある毎に確認しければならないだろう。だから、今の若い人たちにも是非観てもらいたい作品だ。それに作品のメッセージ性に関係なく、構成、演出、編集が実に巧みな作品なので、映画作家を目指す若人には、その点だけでも絶対の必見作だ。
なお、本作を配給する映画会社エデンの代表で映画評論家でもある江戸木純氏とはかつてビデオソフト産業がニューメディアとしてもてはやされて急成長を遂げていた20余年前に時には手を取り合い、時にはライバルと目しながらお互い骨身を削って映画、ビデオ業界のために走り回っていた仲である。その江戸木氏の手によって『ハーツ・アンド・マインズ』が公開されるのはなんとも嬉しい。
『ハーツ・アンド・マインズ/ベトナム戦争の真実』は『ウインター・ソルジャー/ベトナム帰還兵の告白』と2本立てで下記劇場にて上映。 6/19(土)〜7/16(金)東京都写真美術館ホール
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もっかの趣味は娘?
▲ 足をサバンナにしてくれということで妻と描いたが、暑苦しくないのかね?
今年4月、娘が小学校に入学した。7年前までは自分が子持ちになるなんて夢にも思っていなかったので、入学式に参加したときはもう感無量のひと言だった。我が家に娘が来たのは結婚してから17年目の事。私は42歳、妻は41歳。24年前に結婚したときは、実は「出来ちゃった婚」の先駆けだったのだが、慌てて結婚してみたら神様は冷たかった。その後、まだ私が会社員だった頃にまた機会が巡ってきたが、その時も神様は冷たかった。妻の入院した病院から某大学病院での検査を勧められたものの、妻も私も行くのをためらってるうちに月日が流れてしまった。たぶん、どちらかに問題があると診断されるのがお互い嫌だったのだと思う。その間に私は生活のことなどかえりみずに夢を追ってまっしぐらになってしまった。だから、ある時期に妻はすっかり子供を諦めたらしい。ところが、お互い40歳を過ぎて思いもかけないお目出度。高齢出産、不安定な収入、色々と不安だらけだが、この幸運は大事にしないといけない。ありがたいことに無事に娘が誕生し、こうやって小学校に通うようになってくれた。うん、これは全国のアラフォーの皆さんに、是非お伝えしたいところだ。こういう家族もいるので多少の歳でも子作りには自信を持っていただきたい。
さて私は子供の頃から映画に夢中で、映画のことしか考えていないバカだったから、今の仕事が出来るようになったわけだけど、人生には映画よりも大切なものがあると今になって思い知らされている毎日である。で、娘は小学校に入学して間もなく、いきなり足の骨にヒビを入れた。私の時間が許す限り朝夕の送り迎えをすることになったが、この大変さもなにやら嬉しい。昔の趣味は映画だったが、もっかの趣味は娘といったところか。でもそのうち、「お父さん、臭いよ。あっちいって」などと言われる日が来るのかと思うと気が滅入る。しかも私の場合、足や口臭だけじゃなくて加齢臭も加わるからなお辛い。
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『三鷹オスカー 一日だけ、復活!』お陰様で盛況のうちに終了!
会場になった三鷹市芸術文化センター、星のホールの入口。
上映された『地下室のメロディー』、『いとこ同志』、『死刑台のエレベーター』共に満席だった。
ロビーにはありし日の三鷹オスカーの写真や当時のチラシやチケットが展示され、閉館時に撮影されたビデオがモニターで再生された。
トークショーの登壇者。左から司会の「三鷹コミュニティシネマを夢みる会」羽石雅子さん、三鷹オスカーの元番組編成・鶴田浩司、コラムニスト・えのきどいちろうさん、三鷹市在住脚本家・金子二郎さん。
3月22日(月/祝日)に『三鷹オスカー 一日だけ、復活!』が開催され盛況のうちに終了することができた。昨秋に三鷹市の第三セクター、鰍ワちづくり三鷹から連絡を頂いてから、三鷹オスカーの番組編成を担当していた兄と共にこのイベントの準備に関わって半年。我々兄弟としては嬉しい企画で三鷹市の有志の方で組織される「三鷹コミュニティシネマを夢みる会」の熱意にも乗せられてどっぷりとはまってしまった。
結果、前売り券は完売し、当日は朝から当日券を求める人々が並んでくれて嬉しい限りだった。ちょっと心配だったのは三鷹オスカーが自由席だったこともあり指定席制にしなかったので、お客様の座席の確保で混乱が生じるのではないかということだった。でも、「夢みる会」とボランティアスタッフの方々が一生懸命に対応していたのと、素敵なお客様ばかりだったので杞憂に終わりホッとした。
トークイベントでは兄の浩司と三鷹市在住の脚本家、金子二郎さんが三鷹オスカーの思い出や名画座の必要性などを語った。更に30年数年前に三鷹オスカーで催されたイベントで司会を担当したコラムニストのえのきどいちろうさんにも飛び入りで登壇してもらった。えのきどさんの「好きなことを守るには身銭を切ることです」という言葉は特に印象的で会場にいた全員に響いたようだった。
今回は三鷹に三鷹オスカーのような常設の映画館を作ろうという夢に向かっての一歩としては順調な滑り出しだったと思う。しかし、こういうイベントは継続していかないと力にならない。「三鷹コミュニティシネマを夢みる会」の皆さんに是非とも頑張っていただいて、第2弾、第3弾の開催をお願いしたい。
それと最後に、個人的に課題に感じた事を記しておきたい。会場は満員盛況だったのだが、お客様に若い人たちが少なかったのが残念だった。むろん、20年前に閉館した劇場の復活を謳いクラシック作品を上映するのだから年齢層が高くなるのは当然かも知れない。でも、三鷹オスカーではどんなに古い作品を上映しても若い人たちが通ってくれていた。聞けば映画学校の生徒でもクラシック作品を観ない人は多いらしく、今の人たちは映画文化というものに興味がないのかと心配になってしまう。このことを映画業界のマーケティングに詳しい人物に尋ねてみたら、テレビの映画枠が減った上に、放映されるのは新作中心で往年の名画の鑑賞が気軽にできなくなったのが要因ではないかと答えが返ってきた。昔はNHK地上波や民放の深夜などで名作を定期的に放映していたのでなんとなく観る機会があったけれど、いまはBSやDVDなどで意識してみないとクラシック作品を観る事が出来ない。そして三鷹オスカーのような名画座が激減してしまったことも大きな要因だ。どんな立派な作品でも触れる機会が無ければ鑑賞意欲は湧かない。テレビで観て面白かったから映画館でもう一度観る。もしくは、映画館で観て感動したからテレビで観てDVDを買う。そういう相互関係の中で文化は育ち継承されていく。新作中心主義ではそれは難しい。ただ、現状を愁いでいるだけではいつまで経っても若い人たちが名作に触れる機会が無くなってしまう。三鷹に三鷹オスカーのような映画館を造ろうという夢は、三鷹市のためだけでなく若い人に映画文化を伝えていくという重要な課題も背負っていると思える。それだけに次の機会があった際には皆さんからなお一層の応援をいただきたいと切に願うばかりだ。どうぞよろしくお願いします。
三鷹市ホームページ「フォトニュース」
http://www.city.mitaka.tokyo.jp/index.html
「三鷹オスカー 一日だけ、復活!!」専用サイト↓
http://cinema.mall.mitaka.ne.jp/
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「三鷹オスカー 一日だけ、復活!」いよいよです。
いよいよ来週22日(月/祝日)に『三鷹オスカー 一日だけ、復活!』が開催される。前売りチケットは『いとこ同志』を多少残すのみで完売間近だそうだ。このイベントを応援してくださっている皆さんのお陰である。心より感謝させていただきたい。さて、公式サイトでは三鷹オスカーの様々な写真を掲載して解説を付けているのだが、私の家族が写っているものはあえて外した。どうも鶴田家の人間は人前に立つのが苦手で、舞台挨拶などをしなければならない私でさえいまだに慣れない。壇上に上がると足も声も震えてしまい挨拶が終わったときには手に汗をびっしょりかいているのが常だ。そんな人間の父親が人前に立つのを喜ぶはずもないので、三鷹オスカーを経営する会社の社長であった故・啓次郎の写真は外したのである。ただし、この様なありがたい機会に社長が不在というのはやはり寂しい。そこで、父が生涯の間で唯一、壇上に上がった瞬間を捉えた写真をここに掲載したい。
父は1960年頃から三鷹オスカーの前身になる映画館の運営に関わり、1990年に閉館するまでの約30年間を映画館業務に身を捧げた。映画好きの人からすると羨ましいばかりだろうが、名画座として三鷹オスカーに転身する前の封切館だった頃は、映画が斜陽産業の極みで一日の入場者数が3人なんて事もあったらしい。これは三鷹オスカーが閉館した後に聞いた話で、父はそんな様子をおくびにも出さなかった。だから、当時、中高生だった私はのほほんと日々をおくり、結局、映画監督などという不安定な仕事を始めてしまった。子供に不安を与えない父親というのは立派で尊敬するばかりだ。でも、多少は社会の厳しさを身をもって子供に伝えた方が良いのではないかと、自分が子持ちになった現在は思うことがある。ただ、その伝えかたが難しいが…。
あらぬ話になってしまったが、今回の上映を父も喜んで見守ってくれると思う。後は無事にイベントが終了し、三鷹市に名画座を復活させたいという三鷹市民の方々の夢が一歩でも実現に近づけばと願うばかりだ。
「三鷹オスカー 一日だけ、復活!」公式サイト↓
http://cinema.mall.mitaka.ne.jp/
全ての上映終了後、壇上に上がって花束を受け取った三鷹オスカー、社長の故・鶴田啓次郎。(1990年12月30日撮影)
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今年で11年目のコザクラインコのゴンベちゃん。
このヒナの子のインコになかなか良い名前が付けられず「名無しの権兵衛」を縮めて「ゴンベ」と呼んでいたらそのままになってしまった。ゴンベちゃん、ごめん!
(1999年12月1日撮影)
ゴンベのために我が家のエアコンは年中つきっぱなしです。ゴンベの体調のためには反エコになるのも多少は仕方ないと思ってます。
(2009年12月7日撮影)
私の住むマンションは犬猫のペットは禁止なので、我が家には「ゴンベ」という雄のコザクラインコがいる。生まれて間もないゴンベがうちに来たのは、私が『リング0』の撮影を終えて編集作業に取り組んでいた1999年12月だった。だから、ゴンベは既に10年以上も元気に生活を共にしてくれている。コザクラインコの寿命は5年〜15年だそうだから、長生きをしてくれている方だと思う。なにしろ、私と家内にとっては今年7歳の娘よりもゴンベとの付き合いの方が長いので、ちょっと不思議な感じがする。家内と結婚して今年で24年になった。ゴンベが来る前の13年間にセキセイインコとコザクラインコを数羽、ゴールデンハムスターも何匹か飼ったが、みんな長くて4年、短いと1年も経たずに逝ってしまった。家内も私もしっかり面倒をみているつもりなのだが、やはり小動物はちょっとした不調で去っていくので辛い。そういえば、私が面倒をみて半年ほど経ったゴールデンハムスターは、ある朝、息が荒いので慌てて近くの獣医師に連れて行こうとしたものの、その道のりで息が止まってしまった。この時は本当に辛かった。だから、ゴンベが元気にこれだけ長生きしてくれているのが本当に嬉しいし、深く感謝したい。うちの娘は大人に「姉妹はいるの?」と尋ねられると、「いる! インコのゴンベちゃん」と答えて常に我々を困惑させている。それだけにゴンベちゃん、これからもどうぞ長生きしてね。
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悔しいけど素直に賞賛したい『パラノーマル・アクティビティ』。
先日、フジテレビ「めざましテレビ」から全米大ヒット中のホラー映画『パラノーマル・アクティビティ』(来春日本公開)を観てその恐怖を分析して欲しいという依頼があり、その模様が11月23日に放映された。「派手なだけでひとつも怖くない昨今のハリウッド・ホラーとは全く真逆の作品」、「この作り手にJホラーの影響がないとは言わせない」などのコメントが使われ、思わず発した「悔しい!」のひと言で締めくくられていた。ただ、正直なところ溜飲が下りたような奇妙な気分にもなった。
Jホラーの原点と呼ばれる私の監督デビュー作、ビデオ『ほんとにあった怖い話』シリーズ(’91〜’92年)の中でも最も高く評価されているのが『霊のうごめく家』なのは当サイトを訪れてくださる方ならご存じだろう。ある古い一軒家に越してきた平凡な家族が怪異に悩まされる20分弱の短編で、人が部屋の片隅に立っているだけで幽霊と思わせる演出を黒沢清監督らが当時、高く評価してくれたのである。そして、テレビ版『ほん怖』でもプロデューサーから『霊のうごめく家』の様なものを創って欲しいと要請を受けて’03年の『金曜エンタテインメント/同3』(ビデオ&DVD未発売)でユースケ・サンタマリアさん主演による『憑かれた家』というやはり20分程度の作品も発表して好評を得た。だから、『霊のうごめく家』や『憑かれた家』を長編にしたような幽霊屋敷映画を創れないものかと夢想したことが何度もある。しかし、単に人が立っているだけだったり、怪しい音が響いたりという些細な恐怖だけを積み重ねて90分前後を構築するのは至難の業で悩むばかりだった。それなのに『パラノーマル・アクティビティ』はその困難をあっさりと乗り越えていた。しかも、驚くべき事に幽霊さえも登場しないのである。また、かつて私は「ドーナツの穴を撮りたい」という難しい命題を掲げていたのだが、それにも本作は回答を出してくれたように思った。これは存在しない存在を撮りたいということなのだが、登場人物や観客が恐怖の対象を認識することで物語が成り立つ劇映画でそれを撮るのはやはり非常な難しさがある。とにかく本作が些細な怪異の積み重ねでも一本の映画として成立したのは『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』同様のフェイクドキュメンタリー(モキュメンタリー)の手法をとったことによるものだろう。そして何より、少々無理な展開があってもこの恐怖描写をもってすれば観客の背筋を凍らせることができるという作り手の揺るぎない自信と熱意がみなぎっていることが大きい。私が29歳でビデオ『ほん怖』に取りかかった時にもこの自信と熱意があった。そしてそれは、今も失っていないつもりだ。だが、やはり20年近くもホラーを撮り続けていると迷う事もある。
とにかく、『パラノーマル・アクティビティ』について嫉んだり、自分についてぼやいたりするよりも、ここは素直に賞賛して日本でもヒットすることを祈りたい。特に、残酷な表現を一切せず、音、風、影などで恐怖を構築する演出は我が『ほん怖』に似ているので、『ほん怖』ファンにお薦めだ。
『パラノーマル・アクティビティ』の一場面。 |
ビデオ『ほん怖』は’05年に『Scary True Stories』 |
※『パラノーマル・アクティビティ』サイト↓
http://www.paranormal-activity.jp/
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『アニエスの浜辺』とスパニッシュ・ホラー『エル・ゾンビ』の関係。
アニエスの浜辺
海角七号
君想う、国境の南
千年の祈り
地下鉄のザジ
現在、岩波ホールで公開中の『アニエスの浜辺』の配給を手掛けるザジフィルムズの志村社長と先日、10数年ぶりに食事をした。私は大学を卒業してHRSフナイという船井電機のビデオメーカーに勤めていたのだが、その会社を辞める二ヶ月ほど前に入社してきたのが志村氏だった。ギャガへの転職が決まっていた私の仕事を彼が引き継いでくれたものの、彼もその翌年にフナイを辞めてザジフィルムズを立ち上げて今日に至っている。
ところで、数年前に『エル・ゾンビ』シリーズという70年代のスペイン製ホラー映画のDVDがリリースされた。これは熱烈なファンを持つホラーシリーズで、DVD-BOXには私と映画評論家・江戸木純氏との対談を掲載したブックレットが封入された。実は私がフナイを辞める直前にビデオ・リリースしたのが、この『エル・ゾンビ』シリーズの記念すべき第一作目だった。私はその対談の中で『エル・ゾンビ』の邦題を付けたのは、私でも志村氏でもなくその当時一緒に働いていた別の人物と語った。ところが、どうもそれは私の記憶違いでこの邦題を発案したのは志村氏だったようだ。そんなわけで『エル・ゾンビ』DVD-BOXのブックレットを読んでいただいた方とザジフィルムズの志村社長にお詫びを申し上げたく筆を執った次第だ。
それにしても、あの時バカ話をしながら古いホラー映画にタイトルを付けていた仲間が、まさか岩波ホールで上映される上質な作品を手掛けるようになるとは思わなかった。ザジフィルムズは現在リバイバル公開中の『地下鉄のザジ』も配給し、ウェイン・ワン監督の『千年の祈り』の宣伝も担当している。また、新年には台湾で記録的大ヒットになった『海角七号』をマクザムと共同配給する。日本に素晴らしい作品をますます頑張って紹介して欲しい。
※ザジフィルムズのサイト↓
※エル・ゾンビ コンプリートDVD-BOX↓
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この夏、三鷹オスカーにタイムスリップした。
小型の35mm映写機とスクリーンを持ち込んで即席の映画館になった三鷹産業プラザの貸し会議室。座席は普通の椅子だったので堅かった。でも、それがかえって座り心地の悪かった三鷹オスカーの座席を思い起こさせた。
『ほん怖』の仕事が忙しくてすっかり時間が経っての報告だけれども、7月末、久しぶりに三鷹で映画を観た。三鷹駅近くの三鷹産業プラザで行われた「優秀映画鑑賞推進事業35mmフィルム上映会〜みたか DE CINMA」でのこと。上映されたのは小津安二郎監督の『麦秋』、『彼岸花』、『東京物語』の三本。その日は仕事があったので『麦秋』一本しか観られなかったが、この映画鑑賞にはなんとも不思議な気分にさせられた。これが新作映画だったり、ビデオ上映だったりしたらこんな気分にはならなかっただろう。この三鷹の地で古典的名作が35mmフィルムで三本立て上映されているのである。『麦秋』が投影されているスクリーンが、否が応でもありし日の三鷹オスカーのスクリーンとダブった。綺麗な上映会場だったのに、私はいつしかトイレの匂いが漂ってくる薄汚れた場内へとタイムスリップしていた。郷愁、感慨、そんな言葉では言い表せない気持ちがこみ上げた。「三鷹オスカーの息子」にとってはこれ以上ない素敵な時間だった。
私はこの上映会を主催する(株)まちづくり三鷹から招待されての鑑賞だった。この会社の職員の方が当サイトの三鷹オスカーの記述をご覧になって連絡をくれたのである。ありがたいことに三鷹市民の中には三鷹オスカーのような名画座の復活を望む声があり、この三鷹市の第三セクターはコミュニティシネマ(市民映画館)を開館できないかと模索している最中だそうだ。名画座の激減と共に名作や旧作をフィルムで観られる機会がすっかり減ってしまった現在、これは大変に有意義なことだと思う。最近の映画はテレビ画面が大きくなっただけの様なものが多いが、本来の映画は劇場の空間で最大限の魅力が発揮できるように作られていた。作り手たちはそこに心血を注いでいたのである。だから、映画の本質は映画館でなければ分からないし、そんな映画の醍醐味を今の若い人にも体感してもらいたい。市民運営の映画館は全国にぽつりぽつりと出来ているが、そんな劇場がもっと出来てかつての名作を映画館で観られる機会が増えれば日本映画の更なる向上、発展に繋がると思う。まずは、(株)まちづくり三鷹と三鷹市民の方々に頑張っていただきたい。ちなみに、来年3月にも同様の上映会を三鷹で予定しているそうなので、ご興味のある方は是非、足を運んで欲しい。
※(株)まちづくり三鷹↓
ここがかつて三鷹オスカーのあった場所。「寝言」の2006年9月5日「三鷹オスカーの息子」に掲載した写真とほぼ同じアングルで撮影した。 |
「コージーコーナー」を見ていたら、うちの劇場が場所を貸していた「好味屋」さんの菓子パンやサンドイッチ、それにソフトクリームの味を思い出した。当時は中央線沿線に何店舗も出店していたが、いまも下記で頑張っているようで嬉しい。 |
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三宅隆太の映画監督デビュー作『呪怨 白い老女』を観た。
今年で10周年になるテレビ『ほん怖』を第一回目から主に脚本で支えてくれている三宅隆太くんとは、かれこれ16、7年の付き合いになる。大学生だった彼に「ファンなんです」と、あるパーティで声を掛けられたのが出会いである。まだJホラーどころか心霊ホラーという言葉さえもない時代だったから、私は大いに励まされた。黒沢清監督、高橋洋さんらがビデオ『ほん怖』を賞賛しているのを知ったのはその後のことだから、私にとって三宅くんは鶴田作品の最初のファンで最大の理解者だった。その後、彼は私のホラー作品を真似た自主映画を何本か創って見せてくれてプロの映画作家として活動したいと言ってきた。そこで、1999年に『ほん怖』のテレビ化の話が持ち上がったときにフジテレビに紹介をして参加してもらうことになった。また、鶴田の短編ホラーの中でも最も満足する一本である池脇千鶴主演『学校の怪談/何かが憑いている』の脚本も書いてくれた。その他、映画『案山子/KAKASHI』の脚本にも協力してもらったし、私が『怪談新耳袋』の依頼を受けたときもプロデューサーに紹介をした。そんな事情で三宅くんには失礼ながら、私にとってはなんとなく弟子のような存在に感じてしまうのである。ただ、それだけにそろそろ彼の一本立ちの映画が観たくてしょうがなかったのだが、それがやっとかなった。『ほん怖』同様に今年で10周年となる『呪怨』を記念して作られた『呪怨 白い老女』は、『呪怨』のフォーマットと世界観を忠実に守りながらも、登場人物たちの背景を描き込んで『呪怨』らしからぬラストに持ち込んでいた。感服だった。しかも、清水崇監督の明晰な頭脳が生んだ『呪怨』は時制と視点をずらすのが決まりとなっているので、気をつけないと構造だけの映画に陥ってしまうのに、三宅監督はその罠にはまらずに主人公の少女や彼女と接点を持つ家族の心にも踏み込んでいた。立派なものだと思う。さらに、三宅監督作の短編で評価の高かった『怪談耳袋/姿見』の恐怖をてらうことなく使い回してまんまと観客にショックを与えている。このしたたかさが凄い。私などは一度うまくいった演出を再度試みて失敗してしまうのが常である。三宅監督は同じ演出を再現してちゃんと効果を上げているのだから見事だ。大したものだ。
とにもかくにも、三宅隆太の本格的な映画監督としての第一歩を確かに感じられる作品であるのが嬉しかった。おめでとう! 三宅くん!
※『呪怨 白い老女』は『呪怨 黒い少女』と二本立てで6月27日より公開。
公式サイトはこちら↓
『案山子/kakashi』の脚本執筆中の私と三宅隆太くん。二人ともなにげに若い。(00年11月、鶴田の仕事場にて)。
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トキワ荘記念碑の除幕式に行った。
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8年ぶりの“ゆうばりファンタ”。
男気がたぎるブロンソン、2大傑作『狼の挽歌』と『狼よさらば』の看板。
“ゆうばり国際ファンタスティック映画祭2009”に “オフシアター・コンペティション”の審査員として参加してきた。自作『案山子/KAKASHI』がこの映画祭に出品されたのが2001年だったから、8年ぶりの夕張だった。はじめて訪ねたときにまず魅了されたのが、街の至る所にある復刻された昔懐かしい映画の看板の数々。私が訪れて以後、市の財政破綻で映画祭も一時中止になったのであの看板たちの行く末を心配していたのだが、元気に健在していたので嬉しかった。8年前には気づかなかった大好きなチャールズ・ブロンソンの2作品を見つけたので写真をパチリ。『狼の挽歌』は日曜洋画劇場が初見なので公開時の看板の記憶が無いのだが、『狼よさらば』は学校帰りの渋谷で“渋谷宝塚”(この劇場の跡地にQ FRONTがある)に看板が掲げられていたのをよく覚えている。あの時のワクワクとした気分がこの北の地で30余年ぶりに蘇った。シネコンの発展でこういう手書きの看板が無くなってしまったのが寂しい。
さて、“オフシアター・コンペティション”は一日に5本の長、短編を観ないといけないので50を手前にしたオヤジにはしんどかったが、応募300本強の中から選ばれた作品はどれも優れていて感心した。結果としてはヒップホップ青春映画『SR サイタマノラッパー』(監督・入江悠)をグランプリに選んだ。実は審査員全員が最初から本作を推していたわけではないのだが、討議を重ねるうちにこの結果になった。ちなみに、私は最初からグランプリに推していた一人。閉塞された現状にもがくラップに魅了された若者たちの切実な姿に感動してラストでは涙してしまった。弱冠29才の入江監督は近いうちに更に優れた仕事をしてくれるに違いない。
ところで、審査以外で観た映画では『チェイサー』という韓国の社会派サスペンス・アクションが面白かった。実は鑑賞直後はいささか嫉妬してしまって素直に面白いと言えなかった。何しろ監督、脚本のナ・ホンジンはまだ34才で、しかも本作が長編処女作だという。私はホラーだけでなく、こんな作品を撮ってみたいと常々思っていた。それなのに、この若い監督はこの処女作をやすやすと創って韓国で大ヒットを飛ばし、更にはディカプリオ主演でハリウッド・リメイクも決まっているという。なんとも悔しい限りだ。
オフシアター・コンペティションの審査員メンバー。左から審査委員長の高橋伴明監督、鶴田、プチョン・ファンタ映画祭プログラマー、クォン・ヨンミンさん、香港のフォトグラファー、ウィン・シャさん、女優の渡辺真起子さん。
アマンダ・プラマーさんと。『サウンド・オブ・ミュージック』の看板があったのでその下で撮ればよかったと後悔した。
夕張では昼は映画を観まくり、夜は映画を肴に酒宴を開き、まさに映画漬けな日々を過ごした。映画人としてこれほど幸せなことはない。そして何よりも、映画祭に打ち込むスタッフと夕張市民の熱意に感激した。来年は20回目を迎えるこの映画祭がいかなる逆境にも負けず未来永劫に続くことを願うのみである。
『SR サイタマノラッパー』公式サイト↓
http://sr-movie.com/
※’09年3月14日から2週間限定で池袋シネマ・ロサでレイト公開。
『チェイサー』公式サイト↓
http://www.chaser-movie.com/
※ディカプリオではなくて若い時のリー・マーヴィン主演で観てみたかった。
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父と三鷹オスカー。
昨年11月末に父が永眠した。数年前から動脈瘤を患っていたのだが、長年の喫煙から併発した肺気腫のために麻酔が掛けられず手術が出来なかった。そのため食事と生活全般に気をつけて過ごして、このところは体重も増えていた。だから、まだしばらくは大丈夫だと思っていたのに、あっさりと逝ってしまった。動脈瘤は破裂すると悶絶する痛みがあるそうだが、幸いにもそれはなかったのが救いだった。
父についてあれこれ思い返しているうちに、父が“三鷹オスカー”を始めた歳と今の自分が同年齢であることに気がついた。それまでは東映映画の封切館だった“三鷹東映”を、父が三本立ての名画座として再出発させたのは1977年だった(“三鷹オスカー”に改名したのは翌1978年)。大ヒットを記録した『仁義なき戦い』をはじめとした実録ヤクザ映画作品群や、菅原文太、愛川欽也主演で人気となった『トラック野郎』シリーズも飽きられて東映映画では続けていけなくなっての決断だった。名画座に変更した当初の入場料金は一般500円だった。それまでは1000円以上の入場料金(当時は一般1300円?)だったのに、いきなり一般500円に下げたので本当にやっていけるのかどうか非常に不安だったと数年前になって父から聞かされた。しかし、結果としては成功でその後1990年まで続く良心的名画座のイメージを決定づけた。父はその時、47歳だった。
さて、父が逝ったときに私は47歳、昨年末に48歳になった。父はホラー映画が苦手だったし、映画監督という職業に対して懐疑的だった。私は父の意志に反して現在に至ったようなものだ。そんな親不孝者の私でも今までに大きな決断を強いられたことはあった。そして、今後も同様の局面に立たされることはあるだろう。だが、そんな時は50を手前にして“三鷹オスカー”を始めた父の姿を見習って生き抜いていきたい。今はそう思っている。
▲ “三鷹オスカー”最後のチラシ。原稿は兄が書いていた。
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傑作『ハッピーフライト』!
先月、釜山国際映画祭に招待された際に、いち早く『ハッピーフライト』を観た。ただし、自作『おろち』を差し置いて他人の作品に言及するのははばかれたので、今まで黙っていたのだが『ハッピーフライト』は傑作だった。欲を言えば綾瀬はるかさん(『ほん怖』ではお世話になりました!)の後半での活躍シーンが欲しかった。でも、これだけ粋で楽しくてスリルがあってスケール感もあって、さらに映画的躍動感に溢れた日本映画は観たことがない。むろん、『ウォーターボーイズ』も『スウィングガールズ』も面白かった。だけど、やっぱりこの2作はこぢんまりとしていた。一転して『ハッピーフライト』はハリウッドの良くできた娯楽大作に匹敵するエンターテインメントだ。まあ、そこまでお金は掛かっていないにしても、見終わった後はとても贅沢で幸福な気分になった。ひとえに矢口監督の努力と才能のたまものだろう。そして、それを実現させたアルタミラピクチャーズの桝井プロデューサーの仕事にもただただ感服するばかりだった。実はこのお二人とはテレビ『学校の怪談』でお付き合いがあったのだが(現在は年賀状のやり取り程度です)、そんな身近に接したことがある人がこういう素晴らしい仕事をすると嬉しい。そして同じ映画人として悔しい。ところで、この作品に対して期待したほどに笑えないと不満を漏らす人がいるようだが、矢口監督は娯楽映画作家でありコメディ作家ではないと思う。だから、そんな不満はお門違いだと言いたい。1999年に『学校の怪談/たたりスペシャル』でご一緒した時にホラー演出について私に様々な質問を浴びせてくるので驚いたことがあった。要は矢口監督は笑いであろうが、恐怖であろうが人を楽しませることに全精力を傾けている映画作家なのだ。ご本人がどう思っているかは知らないが、矢口監督は希代の娯楽映画作家であり、演劇的手法で映画を撮っている他のコメディ作家さんとは根本的に違う。とにかく、『ハッピーフライト』に感激したのでその気持ちを記しておきたかった。私も頑張ろ。
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『おろち』製作裏々日誌(1)

『おろち』にエキストラ参加してくれた友人が、映画の冒頭に登場する門前家の門(福島県猪苗代・天鏡閣)にわざわざ出かけて撮影。

手前にあるのは出演者に記念に配られた「おろちリストバンド」。
『おろち』公式サイトからリンクが貼られて以来、毎日すごい数のアクセスがある。ただ、訪れる人は「製作裏日誌」と「キャスト・スタッフ紹介」を覗くだけで、この「寝言」のページに来る人はほとんどいない。おそらく、このページに来る人は鶴田によほど興味がある方か、『おろち』をよほど気に入ってくださった方だけだろう。そこで、そんな方々のために私の自信作『おろち』について今まで口にしなかったことをここに記そうと思う。要は私の映画オタクぶりを披露するだけになりそうだが、きっと映画『おろち』を更にディープに楽しんでいただけると思う。
さて、『おろち』について多くの方から指摘されるのがロバート・アルドリッチ監督の『何がジェーンに起ったか?』の影響である。原作にはない映画ならではの設定として、一草を女優に、理沙を子役スターにしたことで似た部分があるせいだろうが、原作の「姉妹」と「血」にも、確かにそんなことを思わせるムードがある。私もこの企画のオファーを受けて数十年ぶりに原作を読み返したときに、詳細を忘れていただけに同様の思いをもった。『何がジェーンに起ったか?』の公開の方が漫画『おろち』が発表される数年前だったことを考えると作家・楳図かずおがヒントにした可能性はある。実際、昔のインタビューで楳図さんが同作を好きだと答えていたことがあるらしい。だが、今回の映画化で楳図さんにお会いしてもこの映画の話題が上ることは一度もなかった。楳図さんが『何がジェーンに起ったか?』を好きだったにせよ、それは作家の血肉となり全く別の作品として産み落とされたのだろう。この世に全くのゼロから生まれるものなどない。先人が残してきたものを礎にして新たなものが生み出されていく。要は他から受け継いだものを充分に自分の中で消化しているかどうかだ。その結果、吐き出されたものが文化を作っていく。楳図かずおという巨匠と間近に接する機会を得て、その文化に直接触れた気がした。そして作家というものは何かの影響ではなく、自分の中から湧き出てきたものを作品にしなければならないという楳図さんの話には深く感銘を覚えて、作家のあるべき姿というものを教えられた気がした。
しかし、私は自分が魅力を感じたもの、好きだったものを充分に消化せずに自作にさらけ出してしまう癖がある。というより自主映画作家だった頃から、他の作品からの刺激を原動力として作品を創っていた。私が最初に評価を受けた自主映画『トネリコ』はブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』に強く感銘を受けたからだったし、プロ・デビュー作であるビデオ『ほんとにあった怖い話』は米国の60年代のテレビドラマ『世にも不思議な物語』(テレビをほとんど見ない楳図さんも欠かさず見ていたそうだ)の様な作品を創りたいと思ったのが企画の発端だった。だから、楳図さんのような孤高の精神の作家と出会うと、自分が恥ずかしくなってしまう。そんなわけで、映画『おろち』に他人の作品をヒントにした演出があることは、出来る限り口にしないことにした。ただ、公開も始まって時間も経った。映画『おろち』や監督、鶴田法男を理解してくれる方には、そろそろ正直にネタを明かしてもいいだろう。
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『おろち』製作裏々日誌(2)

立て込み中の門前家ホール。

完成間近の門前家ホール。
さて、いよいよ製作が決定し具体的な準備に入る頃になって私はヒッチコックの『レベッカ』を思い返していた。というのは“おろち”の描写に関して悩んだからだ。人の運命を見つめる神がかり的な存在なのだから、人間同様に描いてはならないし、かといって私が得意として描いてきた幽霊とも違う。あれこれ思いを巡らしているうちに行き着いたのが『レベッカ』の家政婦ダンヴァースだった。この女性は主人公の前に突然現れて突然姿を消していく。人間なのにまるで幽霊のように描かれていた。しかも、ダンヴァースを演じた女優さんが一切まばたきをしないのが印象的だった。おろちはこれだな、と思った。見つめるだけの存在であれば、まばたきをしない理屈も通る。みっきーのまばたきを禁止した演出の真相は実はこんな事だった。
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『おろち』製作裏々日誌(3)

門前家ホールの奥。こんな所まで作り込んであったが映画には写らなかった。残念。
ところで、撮影準備が進んでいく中で監督が脚本家の書いた本に手を入れることは映画の現場では多々あることだ。その事情は様々だが、『おろち』の場合は予算とスケジュールのために私が書き直すことになった。スケジュールにはめるためにシーンを減らして、その分、他のシーンの台詞や芝居を加筆するといった具合である。実はおろちが佳子にスイッチするテラスのシーンも高橋さんの脚本では原作通りに廊下を舞台にした室内シーンだった。おろちが床に落ちた自分の影を気にして歩くうちに佳子になっていく。しかし、これを屋外にしないとスケジュールがはまらない。そこで私が改稿をはじめたのだが、谷村美月という折角の逸材が演じるのに影を気にして歩いているだけではもったいない気がしてきたのである。そこで、ふと『アラビアのロレンス』の一場面が脳裏をよぎった。大事を成し遂げた主人公ロレンスが、アラブのハリト族から首長が着る服を与えられる。それを着たロレンスは喜んで砂漠を駆け回る。するとそれをハリト族と対立する族のリーダー、アウダが見ていた。それに気づいてロレンスは慌てて立ち止まる。そんなシーンだ。そのイメージを念頭に置いて改稿に取りかかった。つまり、喜びを身体全体で表すロレンスが佳子(おろち)に、それを奇妙な思いで見るアウダが大西弘になったわけである。

門前家テラス(鎌倉市・旧華頂宮邸)にて。
実は『おろち』を演出するにあたって『イヴの総て』は『何がジェーンに起ったか?』よりも、私には重要な作品だった。女優が主人公で、話が進むに従って人間のおぞましい本性が赤裸々になってくる。こんな怖ろしいドラマに一度挑戦してみたかったのだ。『イヴの総て』が好きなのは高橋洋さんも同じで、『リング0』の時もこの作品について散々話し合ったことがあった。

50年代の映画スタッフは背広を着て仕事をしていた。だから私もジャケットを羽織って撮影に挑んだが、初日一日だけでめげた。
さて、あまり長々とあの作品の何がヒントになっていると記すとオリジナリティがゼロの作品、もしくは実は原作の衣を借りただけの映画オタクの作品と思われてしまうかも知れない。しかし、ここに記したことは作品のごく一部のディティールで、優れた原作を映画化するにあたっての映画的なちょっとした味付けに過ぎない。逆に言えば、素晴らしい原作があるからこういう映画的な贅沢が出来るのである。
以上、『おろち』を楽しんでくれた皆さんが、新たな角度で本作を再び楽しんでくれることを願って以上を記したことをお伝えして筆を置きたい。
なお、一部のメディアで映画『おろち』の尺が147分と報じられているが、これは間違いで107分が正解。147分の別バージョンなどというものも存在しない。おそらく、1時間47分と記すところを誰かが単純に間違えたのではないかと思うが、真相は謎だ。
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三鷹オスカーの最後の夜

1990年12月30日、父が経営していた名画座・三鷹オスカーが閉館した。ここに掲載した写真はその夜の劇場正面の様子である。道に溢れているのは最終上映後の“さよならパーティー”に参加するために集まった人々。先日、実家に帰った際に父が大事にしまっていたファイルの中からこれを出してきた。某新聞社のカメラマンの方が紙上に掲載されなかったこの写真を記念にくれたそうだ。だから、ここに掲載するのは少々権利的に問題があるかもしれない。でも、以前に三鷹オスカーのことを記したところ、いまだにうちの劇場を愛してくれている方々が多数いらっしゃることを知ったので掲載することにした。この夜は三鷹オスカーとの別れを惜しむ方々が場内で思い思いに酒を酌み交わした。私はこの日が丁度誕生日だったので、酒宴がはじまるとすぐに私の誕生祝いがあった。そして深夜には私の知人が持ち寄った映画予告編集の上映がされた。ただし、映写技師がフィルムの上下を間違えてしまいブルース・ウィリスらの役者たちが天地逆さまで後ろ向きに走ったり跳んだりして場内大爆笑だった。その後の『ロッキー・ホラー・ショー』の上映では人々が壇上に上がり映画に合わせてスクリーンの前で歌い踊った。酒宴は朝まで続いた。途中ですっかり酩酊した私は事務室のソファでひとり寝入ってしまった。目が覚めたのは朝七時くらいだっただろうか。場内を覗くと深夜の喧騒は既に無く、十数名の見知らぬ人々が客席で眠っていた。幸せそうな寝顔だった。うちの劇場は幸福な映画館だったと、その人たちを見ていて思った。そんなことを昨日のことのように覚えている。
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『秒速5センチメートル』と自分
▲ 最近は映画のチケットの半券をいつの間にか無くしてしまう。でも、本作の半券は大事にとっておきたい。
先日、新海誠監督の新作『秒速5センチメートル』を観た。普段はアニメをあまり積極的には観ないのだが、この監督の作品だけは別だ。『ほしのこえ』というインディーズ・アニメがビデオ市場で秘かに人気を博しているという噂を聞きつけてDVDを入手したのは5年前。宇宙と地球に離れた男女の超遠距離恋愛を描いた切ないSFだった。アニメなのに日本のありふれた風景が極めてヴィヴィッドかつセンシティブに描かれているのに心を奪われた。そして同作の映像特典として収録されていた新海監督の処女作『彼女と彼女の猫』はその世界観が横溢した短編だった。この作家の手に掛かるとありふれた風景がとても詩的で鮮烈なものになる。この一枚のDVDですっかり新海誠ワールドに魅了されてしまった。その後の初の本格的長編『雲のむこう、約束の場所』も素敵な作品だった。しかし、今は『秒速5センチメートル』に尽きる。なぜなら『彼女と彼女の猫』、『ほしのこえ』にあった世界観がさらに洗練されて全編を彩っていたからだ。コンビニ、電車のホームや車内、学校の駐輪場、そしていつもの街並みや街角…。当たり前の風景が登場人物たちの心情とあいまってきらめいていた。新海監督には失礼ながら、本作を観ていて90年代の自分の作品群を思い出した。どれも低予算のビデオ作品だったが、ありふれた日常から恐怖を描出できないかというのが創作意欲の源だった。最近はこれが薄れてしまったように思う。当たり前のものが違って見えるこの感じをやりたかったのだ。原点に戻りたい。『秒速5センチメートル』を観てそう思った。今後の自分の作品にかつての鶴田らしさを取り戻せるだろうか。新海誠監督とは一面識もないが、もしそれができたなら心から感謝したい。むろん私に感謝されてもひとつもありがたくないだろうが…。
※『秒速5センチメートル』公式サイト http://5cm.yahoo.co.jp/
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老舗の映画館の灯がまた消えた。
5年前の2002年11月に慶應義塾大学の映画同好会が主催する自主映画コンペティションの審査員を務めたことがある。この時の上映会場が神奈川県の藤沢駅前にある映画館・湘南オデヲンだった。東京の大田区育ちで結婚後は埼玉県の浦和に住んでいる私は藤沢にはまったく縁がなく、この湘南オデヲンという映画館もその時初めて知った。この劇場は藤沢の老舗の映画館でビルの中に湘南オデヲン一番館と湘南オデヲン二番館という二つの映画館を持っている。私がそこに到着したのはイベントが始まる30分ほど前だった。劇場を簡単に案内されて私は今日の控え室になる事務所に通された。劇場内は綺麗なのだが、事務所は年季のはいった汚れ方をしていた。父の経営していた三鷹オスカー同様の事務所の雰囲気である。私はこういう雰囲気が大好きだ。それにこちらの劇場は湘南オデヲン一番館&二番館だけでなく、駅の反対側に藤沢オデヲン座と藤沢キネマ88という劇場も持っており都合4館の映画館を経営していることも知った。それだけに、本当は劇場の方と映画館談義などしたかったのだが、イベントの進行打ち合わせをしているうちにその時間は無くなってしまった。そしてイベントが終了したのは21時頃。藤沢から浦和までは2時間近く掛かるので、劇場の方と話す余裕もなく私はそそくさと帰ったのである。それ以後、湘南オデヲンとは年賀状のやりとりで細々と交流を持っていたが、先日、一通の手紙が届いた。中には2007年3月末日で全4館を閉館すると書かれていた。近隣に進出してきたシネコンに押されたらしい。1935年の開館以来、この地で72年もの歴史を刻んでいたそうだ。つまり、この劇場には72年分の数え切れないほどの人々の思い出が詰まっているのである。それを考えると閉館がひどく寂しい。そして5年前、慌てて帰らずに少しでも映画館談義ができていたらと悔やまれた。
※写真は無いです。
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実はサラリーマンでした。

▲ 『クエスト/伝説の冒険』のジャケット。この作品のヒットがなければ自分は映画監督になっていなかったかも知れない。

▲ 『ハーツ・アンド・マインズ/真実のプラトーン』。『クエスト』と同時期に発売した作品。1974年度のアカデミー賞ドキュメンタリー長編賞を受賞したベトナム戦争記録映画。これも私がFUNAIに無理を言ってビデオ発売させた作品。ヒットはしなかったが、この名作をリリースしたことは『クエスト』のヒットと並んで私の自慢だった。
映画館の息子という前項を読んで、私が映画監督にすんなりなったと思われた方もいらっしゃったようだが、実際はそうではなかった。元々は普通にサラリーマンとして働いていた。つまり私は脱サラ映画監督なのである。
普通に会社勤めをしていた理由は、私が映画監督に興味を示せば映画界をよく知る両親が常に反対したのと、人並みの生活ができない映画監督が実際に居ることを私も見聞きしていたからだ。映画監督という仕事はヤバイ、やっちゃいけないと自分の心に自ら歯止めをかけていたのだ。そんなわけで大学卒業後の 1985年、FUNAIブランドで知られる船井電機のビデオソフト発売会社に就職して「制作宣伝」の仕事をしていた。「制作宣伝」とは、作品のポスターやチラシを作ったり、ビデオ・ジャケット(まだDVDは無かった)を作ったり、またその作品の宣伝をする仕事。当時担当した作品の中にはジョン・カーペンター監督の処女長編作『ダーク・スター』などもあった。監督にはほど遠い仕事だが映画に少しでもかかわれることが嬉しくて、それなりにやりがいを感じていた。
そんな仕事にも慣れた二年目のこと。会社が海外から買い付けてきた作品群の中に『E.T.』のヘンリー・トーマスが主演するオーストラリアのSFファンタジー映画があった。私はそれが戦略次第でヒットすると直感して、通常の倍以上の宣伝期間と予算を要求して渋る会社を強引に説き伏せたのである。『クエスト/伝説の冒険』とタイトルも私が命名したその作品は3千本売れればヒットだった時代に、結果として1万本を出荷する大ヒットになった。こうなると人間はあらぬ自信を持ち、夢を追いかけても大丈夫な気になる。監督は無理でも社員プロデューサーならば生活に窮する心配もないと考えて会社に映画製作を提案したが、リスクの高い投資である映画製作に会社は見向きもしない。しかし私は前述の成功で天狗になっていた。こんなケチな会社にくすぶっている必要は無いと辞めてしまったのである。その後、ギャガ・コミュニケーションズという会社に就職したが、そこも自分の思惑通りの仕事が出来ないとなるとすぐに退職。それからは自分の心にかけていた歯止めはすっかり外れてしまい、作品作りを目指して夢中になっていったのである。全く若気の至りだった。
むろん、夢を実現するために邁進するのは悪いことではないし、むしろ素晴らしいことだと思う。しかし私の場合、会社員でいた頃が80年代後半の“バブル景気”真っ盛りで、自分の能力だけで仕事が成功したわけではなかったのに、その事に全く気づかなかったのだ。私がフリーの監督になった途端にバブル景気が崩壊。以後、厳しい現実に直面し自分の浅はかさを何度も呪うことになった。
とは言っても、当時を振り返って後悔することはない。あの時の後先を考えない行動がなければ現在の自分はなかったからだ。ただ今は心の歯止めを再びかけて自分が暴走しないようにしている、つもりではある。
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三鷹オスカーの息子


▲ ありし日の「三鷹オスカー」の昼と夜。今はこの場所に「三鷹コラル」というショッピング・ビルが建っている。
東京三鷹市の三鷹駅南口にあった映画館「三鷹オスカー」。この名を聞いても、もはやご存知の方も少ないかも知れないが、かつては池袋の文芸坐などと並ぶ名画座だった。他の多くの名画座が週替わり二本立てなのに対して、三鷹オスカーは週替わり三本立てで、料金は一般1,000円、学生800円(閉館時)。しかも毎週、フェリーニ特集、小津安二郎特集、トム・クルーズ特集などとテーマを持った三本立てを組んでいたのが特徴だった。実は、この映画館を経営していたのが私の父である。だから、私はこの劇場が閉館するまでは実兄と共に「三鷹オスカーの息子」とよく呼ばれていた。本当はこの劇場の経営に直接かかわっていたのは兄なので、私はその名にふさわしくないのだが、とにかく友だちは私をそう呼ぶことがあった。そして、三鷹オスカーは名画座として一定の評価を得ていたので、自分もそう呼ばれるのがちょっと嬉しかった。だが、1990年12月30日に三鷹オスカーは三鷹駅前の再開発に伴って閉館した。あれから今年でもう16年になる。今は友だちでさえ私のことを「監督」と呼ぶが、「三鷹オスカーの息子」と呼ばれていた頃が時々懐かしくなる。ちなみに、1990年 12月30日は私の満30歳の誕生日でもあった。
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初作品は『恐怖のゴトゴト』

▲ (写真は今も持っている8ミリ・フィルム・カメラ、ニコンR-10と映写機ELMO ST-180。稼働するかは不明。)
小学校3年の頃に8ミリ・フィルム・カメラをママチャリのカゴに紐でくくりつけて、自転車の主観ショットを撮ったのが自分の映画作りの始まりだった。この時は、『グラン・プリ』というF1レース映画の映像を真似したかったのだ。そこで、私は家の近くの急な坂道に行き、シャッターをロックするとそこを滑り降りた。危険なほどのスピードが出て、これは『グラン・プリ』に負けないショットが撮れたと意気揚々と現像に出した。果たして、あがってきたフィルムを見て私は愕然とした。画面がゴトゴトと揺れて何が写っているのか全然分からないのだ。仕方ないので『恐怖のゴトゴト』と名付けて箱にしまった(この時から「恐怖の」という言葉が付いている理由は自分でも説明不能)。そして、その失敗にもめげずカメラの固定の仕方を変えて、自転車の主観ショットの撮影に再度チャレンジした。その積み重ねの延長線上に現在の自分がある。それを考えると感慨深い。
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